わら半紙

アニメ感想・日常感じたことなどを書き散らかすブログ

「屍者の帝国」原作感想

屍者の帝国」原作を読んで。だらだらと長いです。
あと改行やら文章やらの癖が前回と違います。

何を重視したかを考え、映画と主観的に比較をしながら、「屍者の帝国」の感想を語ります。かなり牧原監督に好意的です。「ハーモニー」も意識しています。伊藤計劃捧げる、を私なりに受け止めた結果。

「ハーモニー」のなかむらたかしマイケル・アリアスとの感覚が合わなかったように、私は牧原監督が合うのだと思う。ロボットにしても屍者にしても、人のようであるものへの期待と前向きな感情が、牧原監督のそれと近いから非常に受け入れやすかった。
//ハルを見ていないので完全に推測、印象

この原作から何を抜き出すかを考えると、確かに映画を見たあとだからというのはあるけれど、それでも一番重要なのは、物質化した意識/魂である言葉を巡る旅であったことと、その結果記録者であったフライデーの言葉が産まれ、違う次元へと積極的に旅立ったワトソンへの感謝を綴ることであると思う。
//理解のしやすさがこの2点に関しては違う。記述のまどろっこしさは、ザ・ワンがノーチラスで語る菌株という言葉のあり方と、最後の伊藤へのメタメッセージであるフライデーの独白だけ、異常に軽い。
//そもそも語り手であるところのフライデーに独白させるというのは、円城の立場と同じである。

映画ではまずゴールに向けての目標設定を明確にした(その事でザ・ワンが意味わかんない人になったことは否めないし、尺的にもザ・ワンとヴァン・ヘルシングの賭けの対立が不明瞭になって、ラストの闘いのわかりにくさが副作用として現れていると思うけれど)。
焦らしてつかみどころのない概念としていた「言葉」を持ち出すことで、それにまつわる思考の記述を全カットしたのは英断だと思う。言葉という概念が明確に定まった結果、菌株という媒介を挟まず、そうすると乗っ取られる人間独自の魂について浮いてしまう。けれども原作を突き詰めると、花嫁の記述でも明らかなように、言葉で再構成されようとも、独自の魂はすでになくなってしまうことが明らかにされるため、ならば失われた魂を追い求めるものをザ・ワンでなく主人公にさせることで、再構成不可能ということを体験させ主題の一部としたと考えられる。
//それに魂を追い求めるって、改まった説明の要らない前提として便利だし。言葉を求めるのってどうしても「なんで?」がつきまとうと思うし、作中では結局ザ・ワンのいう探求心みたいなので結論づけられちゃうし。

もっと素直に書いてほしかった、と思う。遺されたプロットがどうなのか知らないけど、グレートゲームを意識するあまり機関が多く登場しすぎて、権力や利害関係の甘さが目立ったように感じる。
それを素直にまとめてくれたのが牧原監督であり、確かに同人誌的に言いたいことをひとつに絞って素直に表現してくれたと思う。監督のオナニーというより、これはラブレターに近いと思う。好き、の一点に絞って、ここが好きだからと物語を膨らませた。
//突き詰めれば同人誌も原作でオナニーしているようなものか…… まあ一人遊びというより、愛を伝えたいという片想い状態、というのが正しいかもしれない

その思いと設定が追い付かなかったのはもったいないと思う。菌株と意識の問題を排したことで、代わりの言葉の物質化について及び意識を書き換えるパンチカードの関係性が弱まった。ゆえに解析機関での解析が新言語創出というより、ただの演出となった。極めつけは新言語創出による全死者復活計画がなくなり(まあこれは花嫁の副産物であるけれども)、停止にいたる理由付けがなくなったことであろう。牧原監督はグレートゲームらしさをここで出そうとしたのだろうけど、個人的には失敗だと思った。というかここでグレートゲームの終結をつけないといけなかったために、世界規模の欲望と人質をおくしかなかったのだろうが。
円城が回避できたのは、ヘルシングを現状維持で英国重視の無能にしたからで。あの映画の流れでその行動理念は確かに弱いだろうから仕方ないことかもしれない。
//かといってヘルシングの存在を消せるかと言えば、ワトソンをグレートゲームにのせるための人がいるから、まあ無理だよね。

かなり牧原監督に好意的に解釈していると思う。
映画の不満であったわけのわからなさは、原作からしてそうであったと嘆くしかないだろう。あそこはバーナビーばりの力業で乗り切らない限り、決められた尺かつ一方的に流れる時間軸で説明するのは無理だろう。語らせても、ハーモニーほど分かりやすい設定ではないから、無理だろうし。虐殺器官で虐殺の言語をどう説明できるかで、この評価は変わりそう。ただ個人的に言えることは、原作の設定の重さに耐えかねて読めなかった私が、理解しきれないまでも冒険活劇の映画として楽しめたので良かったということである。
原作ではほとんど浮かばないイメージを120分で映像化したことに称賛を。

追い求めているものがわからないのは、原作からしてそうだったのかと驚愕。ロシア組の処理は、ワトソンとフライデーの関係性を作る以上、対比としていかすのは妥当かと。まああそこで宗教家として研究進めて自決してというのも悪くないけど、生者へのインストール事例とるか、フョードロフ関連ととるかは難しいだろう。

宗教と言えば。映画では宗教要素を全て排したのは、個人的にはありがたかった。あの辺の直喩的な宗教用語は、それを共有していない限り理解の妨げでしかない。バベルとかになってようやくちょっと連想できたが、それにいたる伏線にしては、厄介すぎる。

ハーモニー同様、かなりセカイ系に寄せてきているけど、ハーモニーは社会との関係という主題に密接に関わるところかつ想像が難しくないところを排除して、屍者の帝国は想像しにくい世界観を捨てて主題である言葉を具体化した辺りに違いが出ていると思う。社会のリソース意識やプライベートの息苦しさは、社会なくしては表現できない一方、言葉は社会で捉えるより小さな単位で扱った方が考えやすいだろう。

牧原監督って、ギルティクラウンの演出してるんだ…… 結晶化に対してギルティクラウンのヴォイドを連想したのは、あながち間違いではないかも? 銃の扱いの改変は、個人的にはいいと思う。あそこで他人を撃っているからこそ、ラストで向けられた衝撃もひとしお。ラストにワトソンがホームズといるのを批判したいけど、そういう原作か、としか言いようがなかった。あれは完全に新たにインストールしたものが意識を上書きするっていう部分の積み重ねがなかったこと、加えてハダリーとの会話であなたでなくなるかもと言われて変化した原作に対して、映画は全体での対比構造故の冒頭及びロシア組との重ね方による屍者化イメージの乏しさが原因だと考えられる。

牧原監督の解釈は基本的に分かりやすいけど、ただ肯定できないところとして日本編のラスト、掴んで苦しんでインストールしてザ・ワンと会ってっていうまとめかたがわからなかった。原作でもザ・ワンの痕跡たどらされただけで、あまり重要さがない分、そこに盛り上がりを入れたのが謎。そういう意味ではフライデーとの関係作りを濃くしすぎたように思われる。あとライティングボールが原作でようやくわかったし、なんでこんな小道具にしたと不満を言いたい。ややこしい。

オリジナル要素として一番大きいのは地下道でのペンをトントン及びフライデーの暴走。あれはどう受け止められるか、まだ整理がつかない。感情的には、エンタメ性として個人に落とした物語だからこそ、最後の世界の闘いの前に片付けておかないといけなかったし、原作でも意識が産まれ始めたのはその辺だからその伏線とも言えるし。原作フライデーは過去のない道具だったけど、そこに人間味と過去を足した以上、なにかしないといけないとも考えられる。でも、その分改変度は大きくて、これが伊藤へのラブレターという位置付けの特殊さを共有しない限りは批判にさらされると思う。

やはり、何を重視したかと、物語中の目的設定に回帰してしまう。
Project Itohとして求められたのは、私は原作の再現ではなく、その原作が目指した伊藤の名を語り継ぎ、忘却を阻止することの一端となることであったし、どこまでも伊藤に向けられた思いだったのだろう。その上で目的を語り継ぐ言葉とするのは、自然な流れであろう。
゛純粋゛に物語を楽しむには原作改変が過ぎるが、゛伊藤゛の物語が語られるにはふさわしい作品だった、と私は評価する。

以上。
次はハーモニーの感想を書きたいと思います。もっともこのブログが現時点ではただのProject Itoh感想になっていて、アニメ感想ブログではなくなっていますが。それでは。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

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