わら半紙

アニメ感想・日常感じたことなどを書き散らかすブログ

原作未読者は楽しめる!? 映画「屍者の帝国」感想

はじめまして、こんにちは。
Project Itohの2作目「ハーモニー」の公開、「虐殺器官」の製作続行決定とめでたいですね。

ということで、「屍者の帝国」の感想を【原作未読者】として書いておこうと思います。感想サイトでちらほら見かける、「原作未読は、たぶん楽しめるんじゃないでしょうか」という文言。果たしてそうだったのか、を考える一例になればと思い、こんなページまで作ってみました。

私自身の説明としては、伊藤作品は2012年にハーモニーを読んだのが初めてで、その後Projectを知って、虐殺器官を読んだ、というとてもライトなファンです。

伊藤計劃の夭折を知って作品に興味を持ったタチなので、あまり伊藤自身に対しての思いはないけれど、ノイタミナ作品とかPSYCHO-PASSが好きだったので、この映画も楽しめるかなーという思いです。
なので、「屍者の帝国」原作未読者でありながら、伊藤計劃の著作を読み、伊藤自身についても知っている。という珍しいだろう状態での感想となります。

最初に一番気になっていること/疑問点を提示して、それ以降は短いコラムのような形を続けていく予定です。

そんな感じで、前置きが長くなりましたが、以下から感想はじめます。
その感想もだいぶ長いのですが。

そして、もちろんネタバレ満載です。


■00 「言葉」をめぐって

考えてみてほしい。
果たして、【「言葉」は「魂」足りえるのか?】

物語の中では、「言葉」を求めているのか、「魂」を求めているのか、私にはわからなかった。むしろ、意図的に「言葉」と「魂」は重ねられて描かれているように感じる。
グレートゲームらしく、別のものを追い求めていたらそれまでだがww)

しかし、「言葉」のみで「魂」と言い切ることは、直感的に正しいとは受け取れない。
だとすると、どのように考えることができるのだろう。
「魂」の存在を確認するにあたって、それは「思考」をしているはずで、ならば「言葉」を持つ。という論理展開で捉えると、「言葉」は「魂」の表象の一部に過ぎないのではないか。
キャッチコピーでも、求めたのは「魂」と「言葉」であり、併記されている以上、イコール関係にはないと考えて差し支えないだろう。

では、「言葉」と「魂」は別だとすると、最初に述べたように重ねて描かれていたことに疑問が移る。ラストの方で緑色のエフェクトがバーーン!!と出てくるけれども、あれはいったい何なのか。

「言葉」でいいのだろうか。
「言葉」のみを集めて、「魂」になるのか?
答えは否、だと私は思う。

まず最初に私のスタンスについて述べねばなるまい。
必要なのは、何をおいてもまず、「言葉」なのだろう。

屍者の帝国」の核心に違和感を抱き続けている中で、この感想は生まれている。

■01 単純な感想

正直に言うと難解。それに入り込みにくい。

要因としては、深く入り込むタイミングとして戦闘シーンがあるけれども、バーーン!!と出てくる緑色のエフェクトが何なのか掴めなかったこと。
そして、どうしてもデコードdecodeというか、上映中に自分の中で考え続ける部分が出てくるので、深入りせず、むしろ俯瞰的に物語を捉えざるをえなかった。

■02 伊藤にあてたラブレター

この作品は伊藤が死んで、その言葉が求められたからこそ生まれたわけで。
円城が書くときに伊藤にこめた言葉と、牧原監督が言葉だけでなく映像で伊藤に伝えようとしたものと、その他スタッフの思いと。どれもベクトルはまず伊藤に向かっている、という不思議さ。何かを観客に伝えたいというのないとまでは言わないけれど、でもそれよりもまず伊藤へ、となる。
だから、その思いに乗りきれないと、つらい。

でも、作者(円城)の核を映像化という意味では正解なのだと。

■03 折り重なり、積み重なる意味

円城がこの作品を書くまでの心理的なものやプロセスを、もし私が円城ならばどうかと想像してみると。伊藤の物語が読みたいけどもうなくて、ゆえに過去の作品や伊藤の生き様から書きたいけれど、目的/原動力としては伊藤への思いがある。

そんな状況だから、この作品は伊藤の考える「生と死と言葉」というテーマと、伊藤の死をふまえた「生と死と言葉」への挑戦と、円城自身の言葉として上記2つを表現する世界観と、それを解釈する牧原の。それぞれの意味がワンシーンごとに重層的に存在していると思う。メタレベルの密度が濃すぎる……。

■04 伝えるための言葉、存在を残すための(物理的な)言葉

今まで前者の伝えるための言葉のみを意識してきたけれど。死を見つめた人、書くということにそうして向き合う人は、言葉を残すために書いていると実感した。客観の対象を想定して伝えるのではなく、自己を残す、ということ

■05 それぞれの方向を向く登場人物

the oneの行動の目的が読みとれず、あの世界の中に私は配置(配役)することができなかった。大筋としての、ワトソンがフライデーの言葉もしくは魂を求め。という、いわば生者の側からしか見えていないのかもと自分の解釈を分析してみたり。

■06 多重のかっこ

物語が進むごとに、ここまではこの価値観の解釈でよかったけど、このキーワードによって覆る。違う意味合いを持ち始める、ということを幾重にも重ねられたため、思考が追いつかなかった。「魂」とかヴィクターの手記とか、なにを指すのか掴みどころがないように感じる。120分間一方的に連れていかれる辛さ。

■07 登場人物のメタファー/意味

当初ワトソンが円城に代表される(伊藤の)言葉を追うもので、フライデーは伊藤だと思っていた。けれど見ていて思ったのは、ワトソンこそ伊藤なのではないか、ということ。あくまでフライデーは伊藤がこれからも書いていきたかった世界/社会で、同時に伊藤の行動を書き記すことしかできない円城、かなと。

ラストシーンでワトソンもハダリーもコナン・ドイルの生み出した登場人物然としはじめて、あぁつまり言葉の中で生きているのか。さらにいうと、ホームズシリーズのように、書かれた言葉は一作品に止まらず、誰かの手で生かされ、残り続けるということなのか? そうなると、言葉として自分の存在を残した先駆者である、ワトソンに伊藤を重ねることができるのではないか。ワトソンが伊藤なら、切実に書き続けること、魂の存在を求め続けたこと、という点で納得。この伊藤と円城ら、ワトソンとフライデーの関係性の意味合いの変化は、先に述べた多重のかっこでもある。

the oneの意味は分からないのだけれど、もしかすると被造物という意味で、屍者の帝国の序文部分を体現しているのかもしれないと思った。序文もまた完結を、作者からの愛を求めて、円城によるある種の偽りの花嫁をもらっていったん終了する。また、創造主のヴィクターの脳を求めるのも象徴的と考えられる。伊藤の「思考」が欲しいのだから。存在しない思考を、物理におこしたいというthe oneは序文、だと思う。

■08 「まず、彼の言葉があった」

用意するのは屍体、という生者を排除するかのような言葉であったけれども。
まずあったのが伊藤の死で、伊藤の序文の設定で。それらがProject Itohの最初として、まずあったと示されていると考えられるのは、奇跡のようである。もちろん屍者の帝国がProject Itohの最初の作品となったのは当初の予定とは異なる偶然であり、伊藤はそれを狙って書いたわけではないだろうけど。

それにしてもこの奇跡、そしてこの言葉をきちんと映画冒頭で表現したことは、純粋にすごい、と思う。

■09 生と死

ハーモニーで生の側を、虐殺器官で死の側を書いたことを踏まえてだろうが、屍者の帝国ではその両方を土俵にのせたと考えられる。ハダリーはその目的において、境界線上にいて有用性を発揮している。生者のようで、その内実は屍者のようで。でも魂を感じさせるのは、ハッピーエンドのひとつとしては妥当だろう。

ただ、the oneのように屍者だけど生も並ぶし、アレクセイらのように生から死を示されると、少し事例が多すぎて、それぞれのスタンスが掴みにくいように感じた。

■10 移動と身体性

ハーモニーでも虐殺器官でも、色々な地を巡って、そこでの体験・言葉が人を形作っている。そうした移動の解説役ともいえるニコライも登場する。
しかし、これを病床の伊藤が書いたことを想像すると、逆説的で興味深い。普段我々が意識しない身体に対して、病気によって向き合っていたからこそ、身体の重さ/身体性を重視する表現を多様するのだろうか。

■11 対比構造のストーリー

屍者の帝国の良かった点として、意図というか、核がしっかりしていることがあげられる。そして、その説得力は、いくつもの対比を物語の中に作り上げているから強いのだろう。特にアレクセイを、ワトソンの先をいくものとして表現していたのは、すごく伝わってくる。2人で屍者化というひとつの結論にたどり着くわけだが。

伝わってくるがゆえにその対比を考えると、私はワトソンの屍者化(?)をどう読み取るのか理解できていない。冒頭の屍者化過程を人物を入れ替えたわけで、それがオチだろうに、今一つピンとこないのが、悔しい。とても悔しい。

■12 私が言葉を紡ぐ意味

伊藤の存在がつくられていくことに意味があるのだろうか。
今私がまとまらない考えを書いているように、書くことは個人的に重要で。この映画は消化できないというより、むしろ味が分からないとでも例えるべき。

普通なら嫌なもののはずなのに、それでも考えたくなる、と思わせるのはなぜだろう。見終わって30分歩きながら考えて。すぐに評価を決めるのではなく、ゆっくりと考え直したくなるような。わからないからネット上の感想・考察を見てみたい気持ちもあったけれども、その前に自分の感じた、考えた思いを書き残そうとして、ここに至る。

ふと思ったけれど、ワトソンもフライデーどちらかがというわけではなく、どちらも伊藤という届かない人への愛を告げている、のでいいだろうか。

■13 物語とバックボーン

3.11の後の本には、あの災害の無力感とか理不尽さをどこかにじませたものが多くて、その時私は、作品と作者が感じていることは不可分なのだと思ったけれども。書き継ぐことも映像化することも、あくまで伊藤への思いを伝えるという目的の前では、ただの過程でしかないと思った。不可分どころか、それができるなら構わないという印象を受けた。そしてそのことは、劇中でも目的と過程について語っていたことからも伝わってきた。

そもそも、セリフに製作者の心を込めすぎだと思う。
解釈が重なっていく一方だ……。

■14 山場に次ぐ山場

伊藤作品って、どれも移動して戦っての繰り返しで、息つく暇がないのが少しつらい。屍者の帝国も120分でボンベイ、アフガン、日本、アメリカ、イギリスの5回は最低ドンパチしているので、ちょっと気疲れてしまった。

ただハーモニーでよくやられていたように、アフガンでは会話で心理を進める心理的戦闘シーンがあったので、それはよいな、と。あと、しゃべりなしの風景で親しさとか、ニコライとの交流とか身体性と移動とかを伝えていたのはすごくよかった。見ている時は、なんでこんな繋げ方をするのか疑問だったが、終わってみると、ラストの「旅の言葉」の伏線としての役割をきちんと果たしているように感じた。こういうことを考えて作っているのかと思うと、すごく愛おしい。

■15 実はわかってない

SFとしてはもう少し、原作の設定を見ないとわからない。というか、私ラストシーンわかってない。結局何をインストールしたの? 加えてエンドロール以後のフライデーって何? 何を語っていたの?
結末をまったく理解しないままに、実はここまで語っています。書き終えたら原作を読みます()

■16 雑感

・「~を伝える」のではなく、「(伊藤)へ伝える」映画。

・名前をエジソンとかにしていると、すぐに設定が伝わって便利。でもワトソンなんかは、オチまで含めて諸刃の剣。

・緑色した屍者(生者も?)の魂 / 言葉。あれって感想を言い合っている私たちみたい。回路になって、ネットワーク上を思いがめぐり、そうして屍者の言葉になる。

・映画を見終えて、円城が「あなたたちがそこにいてくれてよかった」と思うのはどういうことか。小説のあなたは伊藤だとして。あなたたちって、伊藤の生んだもの? 語り継いでいく人たち? 観客? ワトソンとフライデー? うーん。観客、でいいのかもしれないけど、それだけで存在を肯定できるのかなあ。

 

■17 関係性の物語

屍者の帝国でワトソンとフライデーの関係性をBLというけれど。確かに見た直後はそう感じた。でもBLではないのかもと私は感じていて、それは伊藤への愛しか存在しないからだと思っている。ワトソンもフライデーも同じ方向を見て、互いを見ていないように、今ならそう思い返す。もっとも、フライデーは見ているのか、という虚無感はあるけれども。
(そしてフライデー可愛い、としか思わない私もいるのだけれども)

■18 「おかえり、フライデー」とは言えない

おかえりなさいと言えない。迎えてあげられない。
開始数分で、2人の友情にあった熱量とおなじだけを、私は伊藤に与えられないことに気付かされる。

私にとっての伊藤の言葉は、既に遺されたものだった。ほぼ同時代ではあったけれども、夭折によって知ることとなった作家ゆえ、喪失を伴っていない。持っていないものを失いようがないし、存在を残すのではなく、はじめましてとあいさつする関係なのだ。そんな伊藤は喪失ではないけれど、しかし死の香りをまとっている。まだ全くの知らない作者であったならよかった。死を意識することで、言葉との距離はきっといつもより遠い。知らない人におかえりとは言えない。どこまでも対岸の人間。

ありがとうと言われ、私じゃないよ、と目を伏せた。

■19 祈りなき千羽鶴

昇華する思いもないまま、けれども思いを分け与えられる罪悪感がある。何を伝えればいいの? 強い思いはないのに求める。ただついていくだけの居場所のなさに耐えるために考える。千羽鶴に祈る言葉を持たない私は、Project Itohにどう参加すべきだろう。

■20 言葉を巡る旅

これだけ書いてきたのには、思いのなさに端を発した居心地の悪さがある。すばらしい作品だろうけど、外から眺めることしかできない無力感。それが、少しでも意味を見出したいという、書く目的となった。その点で私もまた、追い求めるものでありたかった。

おかえりと迎えられないまでも、仲良くなりたかった。伊藤の言葉を知りたかった。どれほど魅力的なのかを、ただ知りたかったのだ。

■21gの魂と君の言葉

触れることのない傍観者として、決して隔たりを越えないままで向き合ってきた。知りえぬ生きた言葉に憧れつつ、自分の中に意味づけるしかない空しさ。そして、喪失を知らないまま、伊藤の遺した言葉と出会い続ける。君の言葉を、君を愛した人の後を、追い続ける。知りえぬものに重さはないけれど、ここまで書いてきた思いは、伊藤を思って書いた言葉は知っていることだから。

21gの魂は、きっと君の言葉を思う生者の中に。

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以上が、劇場版「屍者の帝国」を見て、生まれた言葉です。我ながらすごくポエムで恥ずかしい限りです。どうしてこうなった。もっとまともに考察するはずでしたが、気づけばただの気持ち悪い文章でした。

でも、これだけ考えさせるだけのエネルギーはすごいと思います。
書かずにはいられない、書いて分かり合いたい。
そう思わせるだけの「言葉」、そして思いは確かに存在しました。

当初の目的であった【原作未読者】としての感想ではなくなったかもしれませんし、その点は勝手に熱くなっちゃってすみません、としか言いようがありません。こんな思いで伊藤計劃およびProject Itohと向き合っていた人もいたのだな、と受け取ってもらえれば幸いです。

ここまで、長々と私の「言葉」にお付き合いいただきありがとうございました。これから、ようやく「屍者の帝国」の原作を読んでみようと思います。

それではまた、言葉が届くことを祈って。

 

 

屍者の帝国 アートワークス(仮)

屍者の帝国 アートワークス(仮)

 
屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国 (河出文庫)